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シンガポール:成長記
海外に縁もゆかりもなく、さほど興味もない我が家に舞い込んだ、夫のシンガポール赴任話。当時小6の娘と小2の息子を連れて緊張の旅立ちでした。
赴任が決まったころはシンガポール行きをとても楽しみにしていた娘ですが、9月の運動会、10月の修学旅行を終え出発するや、チャンギ空港に着陸した飛行機の中でひと言。「この飛行機から降りなければ、このまま日本に戻れる?」 娘は、それまでひと言も行きたくないと駄々をこねていなかったので、そこで初めて娘の気持ちを知ることになりました。一足先に赴任していた夫は、子供たちが楽しみにしてくれるようシンガポールの写真や情報を送ってくれたりしていて、娘はシンガポール行きを楽しみにしていたように思えたのですが、6年生の行事をこなすうちにクラスは盛り上がり、友達への未練のほうがどんどん膨らんでいったようです。日本に残ることができないことは重々承知していたので、本音を言えなかったのでしょう。私も海外引越しのあれこれに追われ、母として娘の気持ちの変化に気づいてあげられなかったと反省しました。
そんなこんなで子供たちは日本人学校に通うのですが、日本人学校は出入りが多いので、編入生はすぐ馴染めます。娘も、日本への未練を引きずりつつも同じコンドミニアムから通うクラスメイトと友達になって楽しく過ごしました。しかし仲良かった友達が1人欠け二人欠けと帰国していき、だんだん娘の表情が浮かなくなりました。中2というのは難しい年齢で、クラスで嫌なことが重なったのです。学校から帰ると部屋で読書三昧。そしてことあるごとに日本を懐かしがり、「日本なら中2の冬にスキー教室に行けたのに。」など、隣の芝生はとても青く見えるようなことばかり言っていました。家族旅行を計画すれば「旅行には行かない。3人でどうぞ!」 親は当然4人で予約します。渋々ついていく娘ですが、現地でアクティビティに一番積極的なのも娘。なんとも手がかかるやら面白いやら・・・
高校受験について話そうものなら、「私は高校には行かない!」という始末。親としては覚悟して言いました。「親として中学校までは義務教育だから面倒見るけど、高校へ行ってくださいと言っているわけじゃないからね。行かせてあげるということよ。行かないなら、中卒で独り立ちしてください。独り立ちできるかどうかよく考えなさい。」 激しいことを言いましたが、高校は娘の意思を尊重しようと夫婦で話し合っていました。帰国受験したいなら、夫を残し帰国することにしようと。娘は当然ながら帰国受験を希望しました。それまで塾に行かない、英検も受験しない、なにもしないと言っていた娘ですが、別人のように張り切りだし、中2の終わりから塾に行き、英検も3級と準2級をいっぺんに受けると言い出します。帰国受験に英検が有利だという情報を得たからです。しかし、中3の春休みに日本の高校見学で帰国した際に、思いのほか不親切な場面に何度も遭遇しました。隣の芝生は思いのほか青くなかったようです。また、中3のクラスはとても充実していて、合唱コンクール、体育祭と大盛り上がり。そして、クラスの半数近くが早稲田渋谷シンガポール校への進学を希望していました。娘は、悩みに悩んでシンガポールでの進学を選びました。そして、充実の高校生活を送り大学進学で将来を考えるときに、興味と自立を考えての受験選択をしました。中2のときの私の言葉「独り立ち」で開眼したようでした。自分はいつまでも親に甘えてはいられないと気付き、将来を考えるようになったと言うのです。
振り返って思います。思春期、特に受験期の海外赴任は大変なこと難しいことも多いけれど、自我が育つこの時期に大事なのは、本人の意思を尊重することでした。もちろんすべて尊重することはできないまでも、よく話し合い納得して前に進むことが重要でした。
最後に、ひとつ心に残るエピソードです。娘と二人、あるタクシー乗り場の列に並んでいるときのことです。少し前に大きなベビーカーの赤ちゃん連れのご婦人が、タクシーに乗り込もうとしました。その時、後ろの方の白人の男性がサッと出てきて、ベビーカーをタクシーに積み込んでくれたのです。アジア人は動こうとしなかったのですが、白人の男性は当たり前のように動きました。その後、高校のチュートリアルイングリッシュでのスピーチコンテストで、この場面の話をしてベストスピーカー賞を取ったと自慢していました。12歳まで日本を味わい、以降18歳までシンガポールを経験した娘。それぞれの良さも残念なところも冷静に見、考えられる時間だったようで、学びの大きい時間になりました。
相談員T
写真①:日本人中学校の運動会
写真②:高校の修学旅行(オーストラリア・パースにて)
写真③:高校の卒業式